明細書の補正による要旨の変更

−拒絶査定不服の審判における補正の却下の決定が取り消された事例−
弁理士 河野登夫
(知財管理2007年1月号に掲載)


抄 録 昭和61年の特許出願を原出願とする分割出願に関して,補正の適否が争われた事案である。本件出願には,補正の制限に関する規定が大きく改定された平成5年法は適用されず,旧法下で,補正の適否が「要旨の変更」の有無によって判断される。拒絶査定不服の審判の中で補正の却下の決定がなされたので,その決定の取消を求めて知財高裁に提訴された。特許請求の範囲に追加記載された補正事項が,当初明細書に記載のない事項であり,自明の事項でもなく,また,当初明細書の記載からは起こりえない事象であると認定されて補正が却下されたが,裁判では逆の判断がなされ,却下の決定が取り消された。当初明細書に記載がないなどとする審判における認定に誤りがある,との本件裁判での判断は正しい。しかしながら補正事項には,当初明細書に記載されている事項を超える内容を含んでいると考えられるから,補正が要旨の変更ではないとする判断には疑問が残る判決である。

目 次


1.事件の概要
 1.1 特許庁での手続きの経緯
 1.2 本願の発明の内容
 1.3 補正の内容および却下の理由
2.本件裁判における当事者の主張
 2.1 原告の主張
 2.2 被告の主張
3.判決
4.検討 
 4.1 補正の制限
 4.2 審査段階での判断
 4.3 本件補正の解釈
 4.4 本件裁判での判断
 4.5 考察


1.事件の概要

1.1 特許庁での手続きの経緯

 本件特許出願は,昭和61年2月26日出願の特願昭61−39331号を原出願として,平成12年5月15日に特願2000−142479号(以下,本願という)として分割出願されたものである。本願の発明の詳細な説明及び図面は原出願のものと実質的に同一である。なお,この間,複数回の分割出願が行われている。本願は拒絶査定されたので,拒絶査定不服の審判を請求し,これに伴い平成14年8月9日付で手続補正(以下,本件補正という)をしたが,平成17年1月28日付で本件補正を却下する旨の決定(以下,本件決定という)がなされた。
 この補正の却下の決定の取り消しを求めたのが,本件の裁判(平成17年(行ケ)第10516号)である。裁判では却下の決定が取り消され,拒絶査定不服の審判が続行されている(2006年11月10日現在)。
 なお,判決の時点で原出願の出願日から20年を超えているが,原告は補償金請求権の行使に必要な特許権の設定の登録を受けるため,本願につき実体審査を受ける利益を有するから本件裁判でも訴えの利益を有する,と訴えの利益が認められた。

1.2 本願の発明の内容

 本願発明の概要は以下の通りである。すなわち,本願発明は,図1に示すように基地局と複数の無線加入者局(携帯電話機)との間の無線ディジタル時分割多重伝送に関する。順方向(基地局→加入者局)の伝送には時分割多重方式が使用されるが,これは,図2に示すように,1周波数チャンネルの時間軸上で一定の時間間隔(フレーム)を複数(図2では4)に分割し(この時間位置がスロット),各スロットのそれぞれを別の信号に割り当て,この繰り返しで複数の信号を伝送する方式である。請求項の中身は,複数の順方向搬送波周波数に複数の音声信号チャンネルを形成する装置(請求項1及び4),情報信号をサンプリングし,圧縮し,動的に決定したパラメータで変調して送信する方法(請求項2),信号をサンプリングし,圧縮し,送信信号チャンネルの反復的セグメントの所定位置に配置して送信する音声信号の伝達方法(請求項3),並びに加入者局から基地局への逆方向情報を順方向情報対応の時間スロットからずれた時間スロットに自動配置する電話システム(請求項5)及び情報信号伝達方法(請求項6)である。

 次に,本件裁判に係る請求項5及び6の発明の内容について少し詳しく説明する。
 基地局と加入者局とは複数の周波数チャンネルで順方向及び逆方向の通信が全二重で行われるようになっている。各周波数チャンネルは多数のスロットを有している。変調方式によって定まる個数のスロットでシステムフレームが構成されている。各スロットには送信すべき信号が配置されるが,図1に示すように順方向情報と逆方向情報とは,ずれた時間のスロット(この例では同スロット番号が2スロット分ずれている)に配置される。請求項5はそのような電話システムを,請求項6はそのような信号伝達方式を特定している。

1.3 補正の内容および却下の理由

 (1)本願の願書添付の明細書における請求項5及び6は以下の通りである。

 【請求項5】 局線と複数の加入者局との間にディジタル無線多元接続陸上通信を提供するディジタル電話システムであって,基地局と前記加入者局との間の無線周波数(RF)リンク経由で前記基地局から前記加入者局への順方向情報と前記加入者局から前記基地局への逆方向情報との同時的無線送信が可能であり,前記RFリンクの各周波数チャンネルが多数の時間スロットを備え,相互接続で前記順方向信号を前記周波数チャンネルの一つの時間スロットに配置するディジタル電話システムにおいて,前記逆方向情報を前記順方向情報対応の時間スロットからずれた所定の時間スロットに自動的に配置するディジタル電話システム。

 【請求項6】 互いに異なる無線周波数(RF)の複数の送信チャンネルを有する無線周波数(RF)リンク経由で基地局と複数の移動加入者局との間の多元接続無線電話網における少なくとも一つのディジタル情報信号の伝達を行う方法であって,前記送信チャンネルの各々を複数の時間スロットに分割してあるディジタル情報信号伝達方法において,情報信号への時間スロット割当てをその情報信号が前記基地局と加入者局との間の前記RFリンク経由で一つの方向に送信されるように行う過程と,前記基地局と前記加入者局との間の前記方向と逆の方向の情報信号の送信を前記割当てによる割当て時間スロットからずれた所定の時間スロットで自動的に行う過程とを含むディジタル情報信号伝達方法。

 (2) このような願書添付の明細書に記載の請求項5及び6の発明に対して,審査段階で,進歩性無しとする拒絶理由通知が発せられた。これに対応するために請求項5は

 【請求項5】 局線と複数の加入者局との間にディジタル無線多元接続陸上通信を提供するディジタル電話システムであって,基地局と前記加入者局との間の無線周波数(RF)リンク経由で前記基地局から前記加入者局への順方向情報と前記加入者局から前記基地局への逆方向情報との同時的無線送信が可能であり,前記RFリンクの各周波数チャンネルが互いに同期したフレームとそれらフレーム内で互いに同期した複数の時間スロットとを備えてすべてのフレームの始点が一致しすべての時間スロットの始点が一致するようにし,相互接続で前記順方向信号を前記周波数チャンネルの一つの時間スロットに配置するディジタル電話システムにおいて,前記逆方向情報を前記順方向情報対応の時間スロットからずれた所定の時間スロットに自動的に配置するディジタル電話システム。
 と補正された。
 請求項6にも同趣旨の補正がなされた。
 なお,審査段階では最後の補正段階で請求項1が削除されたので,拒絶査定段階では原請求項5,6は請求項4,5に繰り上がったが,この拒絶査定段階の請求項4,5は審判請求に際しての補正で再度請求項5,6に戻ったので,本論文では便宜上全段階を通して請求項5,6として記載する。

 (3) このような審査段階での補正に対して,補正却下の決定がなされており,その理由の要部は以下の通りである。

 「願書に添付された明細書又は図面における開示は,明細書の【0102】〜【0113】などにおいて,基地局及び加入者局における搬送周波数が同期していることが開示されており,アップリンク周波数のチャネルとダウンリンク周波数のチャネルとで周波数が一致していることは記載されていると認められるが。(「,」の誤り:筆者注)その位相(フレームやスロットの始点)が一致しているか否かについては言及されていない。
 また,図23にはCCU(チャンネル制御ユニット)の送信バスにRCC(無線制御チャンネル)及び16PSK(16レベルの位相シフト・キーイング変調)音声データを転送するためのタイミング図が,また,図24にはCCUの受信バスにRCC及び16PSKデータを転送するためのタイミング図が記載されているが,RFリンクの周波数チャネル上のスロット及びフレームに関するものでなく,しかも,横軸をフレーム時間となっていることから,これらの図面が実時間上で始点が一致していることを示すものとは認められない。
 しかも,基地局から送信した信号に基づいて加入者局が同期をとった場合,伝送時に生じる伝送遅延により,加入者局における基準タイミングは伝送遅延の分だけ基地局の基準タイミングより遅れることは自明であることから,基地局又は加入者局におけるアップリンク周波数の位相(始点)とダウンリンク周波数の位相(始点)とが一致しないことは自明である。また,これの伝送遅延分の遅れを補正するための構成を本願発明は具備していない。」

 (4) この様な補正の却下の結果として拒絶査定がなされたので拒絶査定不服の審判を請求し,併せて以下のような本件補正をした。

 【請求項5】 局線と複数の加入者局との間にディジタル無線多元接続陸上通信を提供するディジタル電話システムであって,基地局と前記加入者局との間の無線周波数(RF)リンク経由で前記基地局から前記加入者局への順方向情報と前記加入者局から前記基地局への逆方向情報との同時的無線送信が可能であり,前記RFリンクの各周波数チャンネルが,複数の時間スロットを各々が含み始点が一致するように互いに同期した複数のフレームを備え,相互接続手段で前記順方向情報を前記周波数チャンネルの一つの時間スロットに配置するディジタル電話システムにおいて,前記逆方向情報を前記順方向情報対応の時間スロットからずれた所定の時間スロットに自動的に配置するディジタル電話システム。

 【請求項6】 互いに異なる無線周波数(RF)の複数の送信チャンネルを有する無線周波数(RF)リンク経由で基地局と複数の移動加入者局との間の多元接続無線電話網における少なくとも一つのディジタル情報信号の伝達を行う方法であって,前記送信チャンネルの各々が,複数の時間スロットを各々が含み始点が一致するように互いに同期した複数のフレームから成るディジタル情報信号伝達方法において,情報信号への時間スロット割当てをその情報信号が前記基地局と加入者局との間の前記RFリンク経由で一つの方向に送信されるように行う過程と,前記基地局と前記加入者局との間の前記方向と逆の方向の情報信号の送信を前記割当てによる割当て時間スロットからずれた所定の時間スロットで自動的に行う過程とを含むディジタル情報信号伝達方法。

 (5) この審判請求段階での補正は以下のような理由で却下された。すなわち,「複数の時間スロットを各々が含み始点が一致するように互いに同期した複数のフレームとの補正は,出願当初の明細書,図面には,記載されておらず,また,明細書又は図面の記載から見て自明の事項でもない。
 しかも,基地局から送信した信号に基づいて加入者局が同期をとった場合,伝送時に生じる伝送遅延により,加入者局における基準タイミングは伝送遅延の分だけ基地局の基準タイミングより遅れることは自明であることから,基地局又は加入者局におけるアップリンク周波数の位相(始点)とダウンリンク周波数の位相(始点)とが一致しないことは明らかである。」
と認定し,「本件補正は,特許法159条1項で準用する同法53条1項の規定により却下すべきもの」とした。かかる本件却下の取り消しを求めたのが本件裁判である。
 なお,本願の原出願は昭和61年2月26日に出願されたものであるから,本件決定にいうこれらの規定は,平成5年法律第26号による改正前の特許法(以下旧法という)を指す。


2.本件裁判における当事者の主張

2.1 原告の主張

 (1) 請求項5の補正に係る,「複数の時間スロットを(複数のフレームの)各々が含」むことについては,当初明細書の段落【0066】の記載に,同じく請求項5の補正に係る「RFリンクの各周波数チャンネルが「(複数のフレームの)始点が一致するように互いに同期した複数のフレーム」を備えることについては,当初明細書の段落【0050】〜【0054】などの記載に,それぞれ基礎を有するものである。請求項6に係る補正についても同様である。

 (2) 前記段落には以下のようなフレーム同期のための技術が開示されている。すなわち,基地局で全システムに対するマスタ・タイミング・ベースを発生し,全加入者局の周波数,シンボル・タイミング及びフレーム・タイミングを基地局マスタ・タイミングベースに同期させている。
 この同期の達成のために,加入者局は基地局から無線制御チャンネル(RCC)の順方向フレームの先頭のスロットで送られてくるRCCメッセージを用いて基地局時間基準をまず捕捉し,加入者局モデムの復調器内のトラッキング・アルゴリズムで加入者局受信タイミングを正確に保持する。
 一方,加入者局は自局の位置に起因する伝送往復遅延を相殺するための小時間量だけ自局から基地局への送信のタイミングを進める。これによって,複数の加入者局からの基地局受信信号が上記基地局時間基準に正しく合致するようにする。
 このようにして,システム内のすべての加入者局の周波数,シンボル・タイミング及びフレーム・タイミングを基地局時間基準に合致させ,その合致状態を維持しているので,順方向チャンネルのスロットと逆方向チャンネルのスロットとは時間軸上で一致する。シンボル・タイミングが順方向チャンネルと逆方向チャンネルとの間で上述のとおり同期するので,所定数のシンボルを各々が包含するスロット及びフレームのタイミングも順方向チャンネルと逆方向チャンネルとの間で同期する。

2.2 被告の主張

 以上のような原告の主張に対し,審査,審判の過程で示さなかった「フレームが同期しない」とする理由を陳述した。
 すなわち,「始点が一致するように互いに同期した複数のフレーム」との文言を「それぞれのフレームの送信と受信の始点が一致した」との趣旨に理解した上で,
ケース1:基地局における送信フレームと受信フレームの始点が一致する場合
ケース2:基地局における受信フレームと加入者局の送信フレームの始点が一致する場合
ケース3:加入者局における受信フレームと送信フレームの始点が一致する場合
について考察し,送信と受信とが一致することは起こりえないと主張した。その理由は
 ケース1については,当初明細書に送信フレームと受信フレームとの開始点が一致しない旨の記載がある。
 ケース2及び3については物理的に起こりえない。
 というものである。

 原告は,上述のような被告の主張に対して,「始点が一致するように互いに同期した複数のフレーム」との文言は「複数の加入者局からの基地局受信信号の各々のフレームの始点が,基地局送信信号のフレームの始点と一致することを述べている」だけであるとし,ケース1については曲解であり,ケース2及び3については本願発明の想定外であると反論した。


3.判  決

 判決は,本件補正は当初明細書の要旨を変更するものではない,として本件決定を取り消した。理由の概略は以下の通りである。

 (1) 請求項5に関し,当初明細書中の「システム・フレーム内のスロットの数はチャンネルの変調レベルに依存する。例えば,チャンネルの変調レベルがQPSK(直交位相シフト・キーイング変調)であるとすると,システム・フレームは1フレームにつき2スロットで構成されている。チャンネルの変調レベルを増大することにより,シンボルごとにコード化された情報のビット数は増加する,従ってチャンネルのデータ・レートは増加する。16レベルのDPSK(差分位相シフト・キーイング変調)においてはシステム・フレームは4つのスロットに分かれ,この各々が1つの通話に対する音声データ・レートを取り扱う。」等の記載から,
 「当初明細書に記載された発明において,複数の時間スロットを複数のフレームの各々が含むものであることは,明らかである。」と認定した。

 (2) 当初明細書の「基地局内の受信タイミングは,基地局の送信タイミングと原則的に同一である。・・・(中略)・・・全システム内の加入者局はその時間基準を基地局のマスタ・タイム・ベースに同期させている。この同期は,加入者局が基地局からのRCCメッセージを使用することによって基地局時間基準を最初に取得する多段階手順によって達成される。・・・(中略)・・・いったん加入者局が基地局から時間基準を最初に捕捉完了すると,加入者局モデム30a,30b,30cの復調器内のトラッキング・アルゴリズムが加入者局の受信タイミングを正確に保持する。加入者局は,加入者局の位置に起因する伝送往復遅延を相殺するための小時間量だけ自己の伝送を基地局に対して進める。この方法による結果,基地局が受信中であるすべての加入者局からの伝送は相互に正しい位相関係にあることになる。」等の記述から,
 当初明細書に記載された発明において,「全システムに対するマスタ・タイミング・ベースは基地局によって作られ,加入者局のシンボル・タイミング,フレーム・タイミングはこのタイム・ベースに同期し,基地局内の周波数チャンネルはすべて,伝送に対して同一時間基準が使用され,基地局内の受信タイミングは,基地局の送信タイミングと原則的に同一であり,システム内のすべての加入者局は,その時間基準を基地局のマスタ・タイム・ベースに同期し,さらに,加入者局は,加入者局の基地局からの距離に起因する伝送往復遅延を相殺するための小時間量だけ自己の伝送を基地局に対して進めるようになされているということができる」と認定した。

 (3) さらに,補正箇所ではないが,請求項5にある「逆方向情報を順方向情報対応の時間スロットからずれた所定の時間スロットに自動的に配置する」ことの目的は,上述の記載などから,「基地局と各加入者局間の距離に相当する遅延時間分だけ,各加入者局からの伝送タイミングを調整することにより,基地局と各加入者局との距離に起因するデータの伝送遅延を相殺し,基地局において受信する信号の位相をそろえ,同期のとれた通信を可能とすることにあると理解することができる。」と認定し,「請求項5における記載及び前記目的に照らせば,本件補正事項における「始点が一致するように互いに同期した複数のフレーム」とは,各加入者局から受信した信号の各々のフレームの始点が基地局において一致するという趣旨と解すべきものである。」と認定した。
 請求項6についても同様の認定をした。

 (4) このような認定から,「当初明細書に記載された発明において,伝送往復遅延が相殺された状態では,基地局において,RFリンクの各周波数チャンネルないし各送信チャンネルは,複数の時間スロットを各々が含み始点が一致するように互いに同期した複数のフレームを備えているということができる。」とし,「本件補正事項は,当初明細書に記載された事項の範囲内において特許請求の範囲を補正するものにすぎず,明細書の要旨を変更するもの(同条1項)ということはできない。」と判示した。
 被告の主張は,ケース1については当初明細書の解釈に不備又は誤りが有るとし,ケース2及び3については補正事項の意味するところと無関係であるとして退けた。


4.検  討

4.1 補正の制限

 明細書の補正の制限の規則は時代の要請と国際的調和のためにたびたび変更されてきた。旧法は「願書に添付した明細書又は図面について出願公告をすべき旨の謄本の送達前にした補正がこれらの要旨を変更するものであるときは,・・・(中略)・・・却下しなければならない。」と規定し(53条1項),審査などの段階において要旨変更であるとして補正が却下された場合は,補正却下不服の審判の請求(122条)が可能であり,その審決に対する取消訴訟も可能であった。本件のように拒絶査定不服の審判で補正の却下の決定がなされた場合は東京高等裁判所へ提訴できると規定していた(178条1項)。
 平成5年法では特許査定の謄本の送達前における補正につき「明細書,特許請求の範囲又は図面について補正をするときは,・・・(中略)・・・,願書に最初に添付した明細書,特許請求の範囲又は図面・・・(中略)・・・に記載した事項の範囲内においてしなければならない。」との規定が特許法に追加された(17条の2 第3項)。そして,審査基準では,補正が許される範囲を「当初明細書などの記載から直接的且つ一義的に導き出せる事項」とした。補正却下不服の審判制度は廃止され,補正却下に対する不服は拒絶査定不服の審判の中で争うことになった。
 このような平成5年法の施行で特許の明細書作成実務は大きく変わった。出願人にとっては補正に慎重を期する必要が増した事はもちろんであるが,将来の補正の可能性を配慮して,出願時の明細書等の記載を詳細に且つ具体的にする必要に迫られた。
 補正の許容範囲を定めた審査基準の運用は他国に例を見ないほど厳しいものであり,内外出願人はその改定を求め続けてきた。審決取消訴訟の判決で補正却下の決定が不当であるとされた結果の集積を受けて平成15年10月,審査基準は,補正が許される範囲を「当初明細書の記載から自明な事項」と緩和された。
 既述の通り,本件は昭和61年に原出願がなされたものであるから,旧法が適用され,補正の内容が,願書添付の明細書,図面の要旨を変更するものであるか否かを考慮して補正の適否を判断すべき事例である。

4.2 審査段階での判断

 本件補正で問題とされた部分に対応する審査段階での補正部分は,請求項5についてみると
互いに同期したフレームとそれらフレーム内で互いに同期した複数の時間スロットとを備えてすべてのフレームの始点が一致しすべての時間スロットの始点が一致するようにし
の部分であり,当該部分の記述自体及び請求項5の文脈,並びに,この補正とともに提出された意見書の陳述内容から見て,基地局及び加入者局のいずれにおいても,すべてのフレーム,及びすべてのスロットそれぞれの始点が一致する旨を記述していると理解するのが適切である。
 審査官は「基地局から送信した信号に基づいて加入者局が同期をとった場合,伝送時に生じる伝送遅延により,加入者局における基準タイミングは伝送遅延の分だけ基地局の基準タイミングより遅れることは自明である」と,加入者局の受信タイミングが基地局の送信タイミングより遅れることを例示し,「基地局又は加入者局におけるアップリンク周波数の位相(始点)とダウンリンク周波数の位相(始点)とが一致しないことは自明である」から,下線部の内容の追加は発明の要旨変更である,と認定した。なお,請求項6の補正内容も,これに対する審査官の認定も請求項5同様である。
 特許出願人の意図はともかく,この補正は,すべての局でのすべての状況での始点の一致を述べているように解釈されるから,審査官の「要旨変更」との認定に合理性があると考えられる。

4.3 本件補正の解釈

 本件補正では4.2で引用した請求項5の下線部が
複数の時間スロットを各々が含み始点が一致するように互いに同期した複数のフレームを備え
 とされた。請求項6についても同趣旨の補正がなされた。
 先の補正との関係でみれば「すべてのスロットの始点が一致すること」が削除されたことになる。また「フレームの始点が一致する」ことについても,「 すべて」と言う点が削除された。フレームの始点が一致すればスロットの始点が一致することは,明細書の記載から明らかであるし,審判請求書において請求人が「各フレームの中の多数のスロットがアップリンクおよびダウンリンクで同様に互いに同期していて同じ始点を有することはもちろんである。」と陳述している点からも明らかである。
 そうすると本件補正の意図するところは,「始点が一致するように互いに同期した複数のフレームを備え」てはいるが,「すべてのフレームについて始点が一致するわけではない」と言うにあると理解される。
 本件決定では前掲の下線部の補正事項は当初明細書,図面にないし,自明な事項でもないとし,また,審査時と全く同様に伝送遅延によりフレームの始点は一致しない,と認定した。
 本件補正の意図を前述のように解釈するとしても,論理的には「始点が一致するように互いに同期した複数のフレームを備え」ることには,「すべてのフレームについて始点が一致する」ことも含んでいるから,判断の当否はさておき,審判時においても審査時と同様の判断をされたこと自体はやむを得ないと考えられる。

4.4 本件裁判での判断

 本件決定における補正却下の理由を請求項5について整理すると,
 理由@ 「複数の時間スロットを各々が含み始点が一致するように互いに同期した複数のフレーム」は出願当初の明細書,図面に記載されていないし,記載から見て自明でもない。
 理由A  基地局又は加入者局におけるアップリンク周波数の位相とダウンリンク周波数の位相とは一致しない
と,理由を示して,要旨を変更するものであると直接には記載することなく,53条1項の規定により却下する,としている。
 当初明細書に記載のない事項または当初明細書に記載されたところからは否定される事項を補正によって記載することは要旨変更に当たる,と判断すること自体は適切であると言うべきである。
 さて,判決においては「始点が一致するように互いに同期した複数のフレーム」とは,複数の加入者局から受信した複数のフレームそれぞれの始点が基地局で一致する,ことであると解釈し,上記理由@は当初明細書に記載されている,と判断した。また理由Aは上述の解釈によって,一致しないとする主張を退けた。
 請求項6についての判断も同様である。

4.5 考 察

 (1) 上述の解釈には釈然としないところがある。本願の通信システムからみて,フレームの始点の一致という事象については,基地局と加入者局及び送信フレームと受信フレームの組み合わせによる複数の組み合わせが考えられる。被告が主張するように
ケース1:基地局における送信フレームと受信フレームの始点が一致する場合
ケース2:基地局における受信フレームと加入者局の送信フレームの始点が一致する場合
ケース3:加入者局における受信フレームと送信フレームの始点が一致する場合
のほかに,順列組み合わせからは
ケース4:加入者局における受信フレームと基地局の送信フレームの始点が一致する場合
が存在し得,さらに加入者局が複数存在することに鑑みれば
ケース5:基地局における複数の受信フレームの始点が一致する場合
も考慮の対象となる。
 原告は「始点が一致するように互いに同期した複数のフレーム」はケース1について述べており,それに対応する記述が明細書中に有る,と主張したのに対し,判決ではケース5であると認定している。ケース5は送信タイミングの始点は不一致である場合も含み得るが,本件の明細書には基地局の送信タイミングは受信タイミングと一致している旨の記載があることから,判決でのケース5である,との認定は実質的にケース1と同じと言うことになる。

  (2) ケース1または5のような事象が生じる旨の記述が明細書にあると認定して,本件決定での明細書に記載無しなどとした認定を否定したことは適切な判断であったと考えられるが,それをもって要旨の変更ではないと判断できるか,という点には疑問が残る。
 本件補正に係る請求項5の文脈からは複数のフレームの始点が一致するのはケース1または5であるとは理解できない。むしろケース1〜4のいずれを指すか不明な記載であると言うべきか,またはいずれのケースをも含み得る記載である,と理解するのがいわゆる当業者の常識であろう。特徴部分の記載を参酌してもケース5に限定的に解釈する必然性はない。 そして出願人が主張しているように,明細書に記載されているのはケース1であり,ケース2,3は想定外なのである。
 当初明細書の請求項5との比較で見れば,本件補正の請求項5はフレーム及びスロットの限定をプリアンブルに付加したものと言うことになり,表見上権利範囲が減縮されたかの如きであるが,付加した文言の意味するところは当初明細書に記載していない事象も含み得る内容となっている。

 (3) 特許法にいう明細書の要旨とは原則的には発明の要旨,すなわち特許請求の範囲に記載された技術的事項を指す。41条は,「当初明細書に記載した事項の範囲内で特許請求の範囲を増加し減少し又は変更する補正は,明細書の要旨を変更しないものとみなす」,と規定して,要旨変更の例外を認めているのである。
 審査基準は「明細書を補正した結果,特許請求の範囲に記載した技術的事項が出願当初の明細書に記載した事項の範囲内でないもの(範囲外のもの)となったとき,その補正は要旨変更である」としていた。1)
 これらの趣旨に照らして考察すると,当初明細書にケース1しか記載されていない本願において,他のケースも含み得る内容となった本件補正は要旨変更であると判断するのが妥当であると考えられる。

 (4) 4.1で整理した補正の制限の変遷は,本件判決に係る旧法下が「要旨変更のない範囲」と最も寛大であり,平成5年法の施行によって「直接的且つ一義的」と一転厳しくなり,平成15年の審査基準の見直しで「自明な事項まで」緩和された,と概括することができる。考察してきたように本件補正は旧法下で要旨変更であると判断するのが適切であると考えられる事案であるから,平成5年法または現行法に基づく現行審査基準下でも補正が許容される内容ではない。
 現行審査基準となって,補正の制限が緩和されたことで補正可能な範囲が広がり,この面では実務的に楽になったといえる。しかしどの範囲まで可能か,という点については,従前の「直接的且つ一義的」の厳しい範囲に対する理解のしやすさに比して,判断が難しくなったと言うことができる。その分補正却下の理由となる「自明な事項」を巡る審判または審決取消訴訟が増加していると推測される。
 平成16年以降の審決又は決定の取消訴訟のうち補正/訂正の内容自体を争点とした事案は20件であり,そのうち補正が適法であるとされたものは本件判決を含み5件である。
特徴有る傾向を読み取るほどの事件の集積は未だ存在しないのが実情である。

注記 1)吉藤幸朔,特許法概説(第10版)p229(1994)有斐閣

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